お寺の紹介

お寺の歴史

 高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派(りんざいしゅうちゅうほうは)(幻住派(げんじゅうは)とも)の本山です。甲斐(山梨)の栖雲寺(せいうんじ)が東天目と呼ぶのに対して、高源寺は西天目(にしてんもく)と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られています。
 開山の遠谿祖雄禅師は、当地青垣町の遠坂地区にあった山垣城(やまがいじょう)の城主足立遠政(あだちとおまさ)公の孫の光基(みつもと)の三男です。遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師(ちゅうほうこくし)のもとで約10年修行をして悟りを開きます。そして、帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建します。
1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、住職は末代紫衣の宣旨を受けました。そして、全国に末寺を持つ大本山となりました。
 しかし、天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失しました。その後、享保の始めに天岩明啓(てんがんめいけい)禅師が再興し、1799年には、弘巌玄猊(こうがんげんげい)禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っています。
 建物は現在、惣門・山門・仏殿・方丈・鐘堂・多宝塔などがあります。
 また、紅葉の名所としても知られています。

お寺の建物

惣門
惣門は、弘巌玄猊禅師が織田藩の援助を得て建立したものです。正面の額には、弘巌玄猊禅師の筆による「丹丘勝処(たんきゅうしょうしょ)」の額があります。
山門
山門は、一般的には「三門」とも書きますが、当山では昔から「山門」と呼んでいます。
 当山の山門は別名「紫鳳楼(しほうろう)」と呼び、二階には、お釈迦(しゃか)様と十六羅漢(じゅうろくらかん)をお祭しています。
 また、二階の天井には、弘巌玄猊禅師筆によります、天女や経典の画が描かれています。
この建物も弘巌玄猊禅師の建立です。
仏殿
当山の中心をなす建物で、「灋王殿(ほうおうでん)」ともいいます。中には、高源寺の本尊「釈迦如来坐像(しゃかにょらいざぞう)がお祭してあります。
本尊「釈迦如来坐像」は、天台宗の僧・恵心僧都の作と伝えられ、平安末期から鎌倉時代の作とされています。また、本尊に向かって左側には、後醍醐天皇の法衣姿の像をお祭しています。
また、右側には、地方大名などの位牌が安置してあります。この建物は、中興の天岩明啓禅師による建立です。
多宝塔
一般的には「三重塔(さんじゅうのとう)」と呼ばれますが、中は「輪蔵(りんぞう)」という造りになっていまして、経典が納めてあります。また、正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天(びしゃもんてん)」をお祭しています。
この建物も弘巌玄猊禅師の建立によるものです。
方丈
方丈は、住職の住まいのことで、ここで法要等の行事が行われます。また、ここには開山遠谿祖雄禅師・開山禅師の師である中峰国師・中興天岩明啓禅師像を始め、歴代の住職等をお祭しています。
この方丈は庫裡も兼ねています。この建物も弘巌玄猊禅師の建立によるものです。
鐘楼
この鐘楼は、寺院行事の折に撞かれます。現在の鐘は戦争に提供して後、昭和22年12月に鋳造されたものです。

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